「YouTuberはクリエイターじゃない」
────そう思ってました。
他人のフンドシで相撲とってイキってるだけの消費者。それがほとんどのYouTuberの正体だと。
でもさいきん、考えがゆらいできた。
「動画制作は創作技術をつかう」
最近コソコソとYouTubeで動画投稿してます。いろいろ学ぶため。
動画をつくるうち、「あれ? これ創作っぽくね?」と思うようになった。
いやそんなはずはない。実況しているゲームは「他人のコンテンツ」。自分は他人のコンテンツを購入して、動画つくって「遊んでいる」だけ────そのはずなのに。
「サムネイル」「尺」「トーク」「プレイング」という概念。
「これ創作だな」と思ってしまった。ただの認知的不協和の解消……いや、どうもちがう。デザイン能力、ボリューム感覚、話題づくり、内容────あきらかに「創作技術」をつかっている媒体です。
動画づくりの感覚は、創作の感覚にかぎりなく近い。
「他人のコンテンツパクってるだけだろ?」
「ゲームの中身を創ったヒトがイチバンえらいに決まってる」
この考えはいまもゆるぎないです。
ですが今はこうも思う────「ゲーム実況者も何かを創っているんじゃないか?」。その「何か」は決して「ゲーム内容」ではない。
ゲーム実況者は、ゲームの「外側」を創っているんじゃないか。
「独創と共創」
独創────「模倣によらず独自の発想でつくりだすこと」。「独創的」とかよくいいますよね。「旧来の創作のイメージ」がまさにこれ。
共創────「様々な立場のヒトと新しい価値をつくりだすこと」。比較的あたらしい言葉です。共に創るから共創。
いまの時代は、「共創」の時代なのではないか。
「独創」でがんばってるクリエイターからしたら、「ふざけんじゃねえよ!」って感じでしょうけど、時代がそれを裏づけてる。
「YouTuber」や「二次創作者」の氾濫。
YouTuberや二次創作者は、もはや「リテラシーの欠如」というレベルをこえて増えすぎている。SNSでもそうだ。他人の著作物を平気でパクってアイコンにしたり、マンガの一部を切りとって自分の言葉のように発しているユーザーもいる。パクりまくりの時代。
ただこれは、「パクリ」という言葉でおわらせていいムーブメントなのか。
「共創」の時代なのではないか。
「独創タイプのクリエイターは減るよな……」
「独創タイプ」と「共創タイプ」のクリエイターがいる。
いま損をしているのは「独創タイプ」だ。
つくってもつくっても他人にコンテンツをパクられたり、共創コンテンツにヒトを奪われたり。数でおとる「独創」はつらい。
コンテンツが氾濫しているいま、真の独創があるかどうかもナゾだ。
「共創」は気楽だ。コンテンツからコンテンツへ、アッチいったりコッチいったり、身軽に移動できる。すくなくとも動画投稿者などは。
こんな時代では「独創タイプ」のクリエイターは増えない。
これが良いことなのか悪いことなのかは────まだわからない。
まとめ 「両方必要なはずなのに」
「独創」は根っこです。
オリジナルがあるからこそ、二次的なコンテンツが生まれ、おおくのヒトがうるおう。
なのに今のインターネットは、「他人のフンドシで相撲をとるほうが強い」という環境になっている。Googleという神がそういう環境を創ってしまった。
「著作権」という概念が、今はあまりにもアヤフヤだ。
「著作者の権利を侵害していないネットユーザー」なんてもはや存在しない。どこもかしこも無許可で転載された違法コンテンツだらけ。それを一度も見ないユーザーはいない。ズルしたもの勝ちになっている。ルールってなんだ。
「共創」が浸透しきった先に、なにがあるのか。
これからが不安でもあり、楽しみでもあります。なにか「イノベーション」が起こるんじゃないか。そんなことを期待してしまう。
今回は以上です。人生によき創作を────ではまたφ(・ω・ )