ポリコレが創作をつまらなくする5つの理由

 

さいきん「ポリコレ」にまつわる炎上事件がふえました。


キリスト教下の欧米ではいわゆる「ポリコレ配慮作品」が一定の商業的成功をおさめ、大流行しています。そのあおりが日本にもやってきて、反発が生まれている状況です。


そしてよく話題になるのが、「ポリコレは作品をつまらなくするか」。


以下、考察します。

 

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はじめに「ポリコレは作品を腐らせるか」

 

ポリコレで作品がつまらなくなるかは、作品によるとおもわれます。


ポリコレ的なテーマの作品にも、商業的成功をおさめたものはたくさんある。売れたということは、多くのヒトビトが「おもしろい」と感じたということです。


じゃあポリコレは、作品をつまらなくさせないのか。


それは否です。


ポリコレによっておもしろくなる作品もあれば、つまらなくなる作品も存在する

 

 

「ポリコレ配慮って時点でなんかイヤ」

 

うわっ、ポリコレ配慮作品じゃん…………つまんな


一種の「拒絶反応」です。


ポリコレへの嫌悪感が社会的につのっていった結果、「ポリコレ配慮」というだけで作品を嫌い、モチベーションを削がれてしまうヒトがふえた。


強引にポリコレを進めれば進めるほど、この拒絶反応はふえていきます。

 

 

「ポリコレはもう飽きたよ」

 

欧米でポリコレ配慮作品が大流行した結果、「ポリコレノルマ」のようなものが出来あがりました。お約束、テンプレともいいます。


黒人がいて、アジア人がいて、ムキムキの女性がいて、なさけない白人男性がいて、同性愛者がいて、障害者がいて、ブサイクがいる────ああこれ、ポリコレ配慮作品じゃん。


ありきたりな作品」に拒絶反応を示すのは、ユーザーの常です。


もはやポリコレ配慮作品を見飽きたヒトビトがふえた。

 

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「脚本の幅せばまるよね?」

 

ポリコレノルマがあると、「脚本の制限」が生じます。


黒人、アジア人、ムキムキの女性、なさけない白人男性、同性愛者、障害者、ブサイク、ほかさまざまな配慮。それらすべてを脚本におさめようとすると、キャラクターや世界観の掘り下げが困難になります。


これポリコレ配慮映画なんだろうけど、なんか話がザツだなぁ……」────というよくある違和感の正体は、ポリコレ的な脚本制作のむずかしさにあるとおもわれます。


「ポリコレノルマ」のひとつひとつのテーマがそもそも激重なのに、なんかウマいことして脚本にとりいれないといけない────でもたった2時間弱で掘り下げるなんてムリだ! とりあえず「当たり前にそこにいる」ようにして……ああ、テーマをどこか削らなくちゃ!


そして内容がうすくなり、違和感がでる


あげく「原作だと白人なのに黒人になってる!」「過去作だと美人なのにブサイクになってる!」という矛盾した「アップデート」が多発する。


よほどのチームなら、それでも素晴らしい作品をつくれるかもしれませんが、基本的に難易度は高いとおもわれます。

 

 

「ポリコレって人間の本能に逆らうよね」

 

美しいものに惹かれるのは、人間の本能です。


もちろん「ブス専」と呼ばれる人々もいますし、人間の「性癖」は多様性にあふれています。


ですがポリコレは、美しいものに惹かれるという「ルッキズム」を否定し、性癖による「フェチズム」も否定します。つまり人間の本能を否定する考え方です。


彼らはそれを「意識のアップデート」「先進的」とカルト的に自画自賛しているわけですが、いわゆる「ふつうの本能をもった大多数のヒトビト」にはピンとこない。


本能を否定されて嫌悪感をいだくのもまた、人間の本能です。

 

 

「政治色と宗教色がつよすぎてちょっと……」

 

ポリコレは、政治色と宗教色の強い思想です。


移民政策をすすめる政党がよりスムーズな活動を行うために「人種差別反対」を訴えたり、キリスト教系の団体が宗教思想のために「ルッキズム・フェチズムの否定」を訴えたり。ポリコレ作品はもはやプロパガンダに利用されています。


ただ日本では、政治と宗教の話を嫌うヒトビトはおおい。


「創作にあまりそういう話をもちこまないでほしい」


創作はいわずもがな、非現実です。


おおくのユーザーはその前提で創作をたのしみ、現実からの乖離で癒されてる


エンタメ的に政治宗教の話をもりこんで楽しまれている作品もたくさんありますが、バランスを欠いて「主張が強くなってくる」と拒否感をいだかれる。


ポリコレ勢力は、現実と非現実を混同し、バランスを欠いたのではないか。

 

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まとめ「行きつくさきは新たな差別と表現規制」

 

ポリコレの問題点の一つは、「差別主義者の隠れミノ」になっていることです。


よく「ポリコレ棒」と揶揄されていますが、ポリコレ勢力は攻撃的なことがおおく、おおくの創作コンテンツ、おおくの国の文化を襲撃してまわっています。そしていざ殴りかえされると、被害者ヅラをする。


「なにか攻撃したい! なにか差別したくてしかたない!」という最も邪悪な人間が、ポリコレという武器を手にして、「正義の側」として方々の畑を荒らしまわっている。時に新たな差別をつくりだし、被差別対象をさらし上げ、悲劇のヒロイン・ヒーローにしたてあげる。そしてまた殴り散らかす。


ポリコレ勢力が海外で「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW/社会正義戦士)」とも揶揄されているのはこういった性質が原因です。


邪悪性と凶暴性を見透かされているからこそ、ポリコレはどんどん嫌われている。




またポリコレは「表現規制」と高い親和性をもちます。


「むかしの名作、ポリコレうるさい今だと流せないねー」


さまざまな圧力団体が台頭し、おおくの表現を「自主規制」というカタチで潰し回っている。記事執筆時点では日本共産党・社民党の下部組織である「全国フェミニスト議員連盟」による松戸市VTuber潰しや、配下の活動家による温泉むすめ潰しが記憶に新しいところです。


表現規制は作品をつまらなくさせるどころか、「過去の名作に出逢えない」ようにし、「おおくのクリエイターや企業を萎縮」させ、「生まれたかもしれない名作をあらかじめ潰しておく」ものです。




ポリコレは、創作物や創作活動をつまらなくさせます。


「ポリコレ的に正しくてすばらしいね!」「ポリコレ配慮してて気持ち悪い……」────ポリコレがはびこるほど、創作の評価基準がポリコレばかりになります。


もはやだれも、創作の「おもしろさ」に目をむけなくなる。


正しいことが面白いと感じるのであれば、それは創作物ではなく、正しき棒をふりまわす自慰行為が面白いのだとおもいます。


今回は以上です。よきエンタメライフを────ではまた。

 

 

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