たまには思い出したように『かえると剣鬼』の設定の話とか。まあ設定というより、内包するテーマのこととか。
あと「ヒーロー」と「ヴィラン」という言葉についての考察。
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かえ剣の作中で、たびたび「ヒーロー」という言葉が出てくる。「hero」というのは、知っての通り「英雄」とかの意味で、勝手に「正義の味方」的な意味が付属してくる。「勝った者(勝つ者)」に与えられる称号だ。敗者には絶対に与えられない。
一方で「ヴィラン」という言葉がある。まだ作中では出ていないけれど、「ヒーロー」の対極に位置させる言葉。「villain」は「悪党」とか「敵役」の意味で、勝手に「犯罪者」的な意味が付属してくる。「負けた者(負ける者)」に与えられる称号だ。
「ヒーロー」とか「ヴィラン」という言葉がよく使われる創作物に、アメコミがある。正直、映画とか見ただけで原作はまったく読んだことない。概要くらいしか知らない。いつか読みたいと思ってるんだけど。とりあえず設定資料集だけ買ってしまったニワカです(´・ω・`)
アメコミの世界観はかなり奥深いものがあるけれど、その構成は基本的に「勧善懲悪」だ。「正義」がいて「悪」がいる。「ヒーロー」と「ヴィラン」で明確に分かたれる。「世界の警察(自称)」のアメリカお得意の「レッテル張り」かもしれない。
アメリカはヒロイズムと勧善懲悪が大好きだ。仇をなす敵国を「テロ国家」と位置づけて、戦争を吹っかけ虐殺を行う。敵対諸国からしたらアメリカが「悪」だが、アメリカが主張すれば何が何でも「アメリカが正義」だ。
アメコミにおける敵役――ヴィランは、ある意味で「魅力的」だ。もちろん「悪」なのだから、大抵は傲慢欺瞞で自分勝手なキャラだ。でも何かの組織(例えば「テロ国家」)とかの「大きな蠢く何か」ではなく、ヒーローに対する「一人の敵役(悪の象徴)」としての位置を与えられている。勧善懲悪の流れに飲まれ、彼らは必ず負けることが宿命付けられている。
でも彼らヴィランは消えない。
何度も復活して、ヒーローたちの前に再び立ちふさがる。潜在的に「悪」を欲しているのか、単にヒーローの「引き立て役」として出すのか。時にアメリカ映画では「ヒーローの苦悩」が描かれ、英雄の中にもまた「ヴィラン」の心があることを示唆している。
基本が「勧善懲悪」であっても、そこに「ブレ」を内包する創作物は多い。単純な勧善懲悪ストーリーを嫌う人も多い。「世の中そんな単純な話じゃない」って、みんな心のどこかで知っている。
「こういうことはしてはいけない」と子供の頃に親に教わる。でも歳を重ねるうちに、親や友人の「悪」に触れ始める。自分の中の「悪」を自覚する。その時点で、勧善懲悪思想は崩壊している。単純な「善悪」のストーリーでは、まったくもって満足できなくなる。リアリティを感じないからだ。
でもみんな、心のどこかで勧善懲悪を望んでいる。自分を完全な「悪」だと自覚して生きられるほど、人は強くない。「悪の栄えた試しなし」という言葉は、勝ったほうが「正義」なのだから当然のことで。
「悪」であるだけで、世界から拒絶されるわけで。「悪」であり続けることができる人間なんて、この世に存在するはずもない。「悪」が勝った時点で、それはもう「正義」だから。この世で「悪」であり続けることは不可能なので、死ぬしかない。
じゃあ自分たちが普段から漠然と考えている「正義」とか「悪」の指標って、なんなの?
本当は曖昧なものを明確にわけるからこそ、エンタメになるのかもしれない。
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