ブログアクセス数と創作モチベーションが反比例する心理

 

創作をやめるヒトの気持ちが、すこしわかった気がします。


創作って基本的に、努力がむくわれないんですよね。利益という意味でも、理解という意味でも。努力にみあったモノが得られない。努力にみあったという証拠がない。


なぜって、評価があいまいすぎるから。

 

前回の記事

創作よりブログのほうがマシにおもえる虚しさ

 

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「書けば書くほどブログは成果がでる」

 

最近ようやく、ブログの1日あたりのアクセス数が1000人以上で安定しました。


つまり月3万人もみてくれる。「アマチュアブロガー」と名のれるレベルになりました。たかがアマチュアですが、「月1万PVで上位5%」といわれる世界なので、多少はがんばったといっていいんじゃないかなと。


今までの創作物で、一番のヒットは『キミはキメラR』の30万DLです。


たった1年ブログを運営するだけで、キミはキメラR以上のPVを得られてしまうわけです。利益という点でも、すぐに追いついてしまうでしょう。

 

 

「創作論のほうがまだアクセスがのびる」

 

創作物より、創作論のほうが需要がある────致命的ですよね。


創作の研究がしたくて創作しているので、それはそれで嬉しいんですけど、本末転倒です。メインコンテンツであるはずの創作物が、いっちばん人気がない。


そしてもちろん、ゲームの攻略記事とかのほうがよっぽどアクセスがのびる。


ゲーム攻略 >> 時事ネタ >>>> 創作ハウツー > 日記 >> 創作物」って感じです。


こんな垂れながしの日記以下ですよ、創作。ふざけんな。


これでどうやって、創作のモチベーションを維持しろっていうんですかね。

 

 

「創作をする意味がほしい」

 

いま、「創作をする意味」がないんです。


金や数字のためだったら、ブログ記事を書き散らしたほうがよっぽどいい。ブログは読者ともWIN-WINの関係だ。良いシステムをGoogleさまがつくってくれた。


創作は、搾取されるだけだ。


読者の応援なんてほとんど口だけ。すべてが終わってから「残念だなー」って声がわきたつ。ロクに何もしやしないくせに、最後だけみんな善人になろうとする。悪にもなれない虚無のために、何が書けるのか。


日本の創作は、ヒトも悪ければシステムも悪い。それはわかった。でもどうしようもない。だれも変われない。変化する勇気のあるやつは、こんな吹き溜まりにはとどまらないからだ。


創作で、喜ばせたいヒトがいない。いなくなった。

 

 

まとめ 「現実逃避しか求めない大衆」

 

「創作の役割」が、ただの「現実逃避」としかみられていない


学校がツラい、家庭がツラい、仕事がツラい。だからせめて創作だけは、自分のことを癒やしてほしい────それだけ。なんの哲学もありゃしない。


だからカワイイほうがいいし、えっちぃほうがいいし、きれいなほうがいいし、わらえるほうがいいし、むずかしくないほうがいいし。


そして創作は、きもちのいいクッション程度の意味でしかなくなる。


自分にとっての創作の役割は、「世界そのもの」であり「真理の探究」です。こんな考え、気色わるいっておもわれるでしょうけど。創作なんて所詮、使い捨ての癒やしグッズだろと────ふざけんじゃねえよ。


癒やしグッズのために創作してるわけじゃない。だけど大衆は癒やしグッズを求めている。ストレス発散することしか考えていない。自分をふくめて、だれも心に余裕なんてない。今を生きることで精いっぱいだ。


感情を焚きつけることも、創作である必要はない。




ただ結局────「創作する意味」を探している。


創作が好きだから。どんな遠回しなこと書きつらねたって、「好き」っていうアホでも抱けるシンプルな感情がいちばん強い。


アプローチを変えるべきなのかもしれない。


「だれかのため」とか「金のため」とか「数字のため」とか、なんでこんなクソみたいな社会の基準で創作しなきゃならないんだ。自分で新しく基準を決めてしまえと。


日本の創作はオワコン。それはわかった。でも自分は創作が好きだ。だったらそれを続けりゃいい。あとは「どう続けるか」「どう楽しむか」じゃないのか。


案外、くだらないことにこだわりすぎなのかもしれない。

 

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