最近、「創作する意味」がわからなくなってきました。
前からずっと曖昧だった。「いつかわかる日がくるだろう」と放っておいたら、10年経ってました。
以下、思考の整理がてらつらつら書いていきます。
「理由」はある。「意味」がない
創作をする「理由」はあります。
理由はシンプル。「楽しいから」。
創作以外、世界なんてわりとどうでもいいです。大地震で赤の他人が大勢死のうが、右が勝とうが左が勝とうが、メディアがコントールされてようが、せいぜい「創作の糧」として眺めているだけです。
なぜ創作が楽しいって、「生むこと」はそりゃ楽しいですよ。生物の根源的な欲求のひとつです。生んで、遺したいって、誰だってそう思う。生き物なら。ただその原始的な渇きに忠実なだけです。他のヒトたちとはすこし、ベクトルがちがうだけで。
どうしてこんなに楽しいことが、いまとても辛いのか。
言語化します。
なぜ意味を見失うのか
生んだものが最初から死んでる。そりゃ意味を見失うでしょう。
より正確にいうなら、最初から瀕死で、ぜんぜん成長しない。人々から求められることもなく、ただ冷たくなっていく。我が子のその様子に、右往左往するけれど、なんにもならない。なんの成果も上がらない。
そもそも、世に求められている子どもではない。
創造主の自己満足に付き合わされただけ。子どもが哀れだ。もうこんな子どもを作っちゃいけない、同じ哀しみを繰り返しちゃいけない、そうおもって、だんだん創るのが苦しくなっていく。
だれも理解できないものを創っても仕方ない
「創りたいもの」と、「求められているもの」が、乖離している。
先日「機能的識字率」なんて話を記事にしましたが、自分はわりと深刻に受けとめています。「読み書きに慣れ親しんだ人間」が、いま凄まじい勢いで減っているんじゃないかって。
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ソシャゲ、YouTube、SNS────「機能的文盲」量産機だと思いますよマジで。
でもべつに、それらに埋没してようが、人間は生きていける。機能的文盲だろうと、日常でさほど困らない。むしろ幸せかもしれない。
で、「読み書きできないヒト」がどんどん増えていく。出版業界の凋落だってそう。「読み書き」という言葉自体が、死語になりつつある。そんなもん無くてもみんな生きていける。ソシャゲで頭空っぽになりながら周回したり、YouTubeでカワイイ・カッコイイ・笑える誰かを垂れ流したり、SNSで承認欲求ゲームを繰り返したり────それで今の人間は生きていける。十二分に満足。
ストーリー? 長いのはちょっと……。理解できないし。なんかテキトーにエロくて、かわいくて、声がよくて、かっこよくて、キャラがよければ、あとはもうなんでもいいよ。流行ってるやつがおもしろいんでしょ? みんなが面白いって言ってるなら、それが面白いんだよ。────────クソ喰らえと。
でも、そういう世界だ。
「僻んでいる」。そうかもしれない。というより九割九分九厘それだ。自分にとって本当につまらないものばかりが流行っていて、流行っている理由は理解できるけど、同じにはなりたくない。
届けたい相手がいない
「こういうヒトにこそ読んでほしい」────ないです。
昔はあったかもしれません。でも今は、自他共に失望感が強すぎて、誰かのために書ける気がしない。役目のない人形に、電池が残っていて、惰性で動いているだけ。
完全に見失ってしまった。
誰かのために書いても、声も反応も返ってこなくて、もはや意味を見出せない。生んでも生んでも、ただ冷たくなっていく。
ムリヤリ「届けたい誰か」を設定するのか。
ソシャゲやYouTubeやSNSで、生きながら死んでいるような消費者のために、自分に一体なにができる。「こっちを見てくれ!」って、必死に叫ぶことか? それは自分のためだろ。じゃあ迎合して、魂の死んだストーリーを提供するのか? くだらない。そんなもん理解されたところで、なんにも嬉しくない。
結局、「適応」できない、この世界に。
悔しい。
こんなくだらない世界観に、合わせなければ生きていけないのが、本当に悔しい。それを撥ねのけるだけの力が、自分にはない。
おわりに
思考の整理のために書いたはずが、まったく整理がつきません。
ただまぁ、「悔しい」という感情は再確認できました。
なんでこんな世の中のクソくだらない価値観に自分が合わせてやらないといけないんだって、マジで思いますよ。傲慢と言われようと、おこがましいと言われようと。
今回は以上です。クソくだらない世界で、良きライフを────ではまたφ(・ω・ )
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